勇者は呪われてしまった。

SAD(社会不安障害)という呪いにかかってしまった勇者の日記

読書メモ:森田療法 (講談社現代新書)

社会不安障害に効きそうなのは薬だけじゃなく、行動や認知で治すというところもあり、どちらかというと薬は補助的な役割をして、実際は心の内面から治していくんだろう。

その、行動とか考え方を変えていくというやり方で、よく目にしたのがこの森田療法というもの。とりあえずAmazonレビューの高いものを読んでみた。

森田療法 (講談社現代新書)

森田療法 (講談社現代新書)

 

 森田療法についてざっと学ぶのに最適。森田療法では、「あるがまま」であることが重要とのこと。つまり

一人前の人間として、人生に対する方向性を見出して行動するときに、希望と同時に生じてくる不安や葛藤を〝そのままに認め、受け入れる〟ことを「あるがまま」というのである。

 西洋的な考え方だと、不安のような気持ちは障害として「取り除く」というのが通常のようで、一方東洋的と言える森田療法では、それを「あるがまま」としてそのまま認めて、受け入れると。

また、すごく自分の琴線に触れる箇所も。例えば、

神経質(症)者は人並以上に観念的な人が多いので、物事を考え尽してからでないと、行動に踏み切ろうとしない傾向がある。「石橋を叩いて渡る」という諺があるが、神経質(症)者は石橋を叩きながらそれを渡ろうとしない人が多いのである。彼らはその橋を本当に確かなものであるかどうかがわからないから渡れないという。

中学生の頃、保護者面談で「息子さんは石橋を叩いて、それはいいんですが、結局渡らない」と言われて、母親が苦笑いしているという風景をよく覚えていて、正に自分のことを言ってくれているとびっくりした。そう、まさにこれで、その橋が確かなものかわからないから渡れないんです。

森田療法での「あるがまま」は、人間性に向かっての方向をもった「あるがまま」なのであり、その方向を「目的本位」という。つまり、それまでに、感じ、悩み、葛藤としてきた不安、苦痛、症状を「あるがまま」にしながら、自分自身の人間としての目標に向かって「あるがまま」を実現していかなければならないのであり、その方向を「目的本位」といい、目的本位はまた、行動として実現されなければならないのである。

 この辺を読んでいて、特にその「目的本位」という考え方、実はこれはここ数年にずっと考えていたこと。さっきの「橋が確かなものかわからないから渡れない」けど、それでもそこを渡るには、その先にどうしても行かないといけないという強い目的が必要だとは感じていて。で、実はこう考え出した、というかこう考えられるようになったのに、この本がありました。

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 
夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

ドイツの強制収容所から生還した心理学者による体験談の本なんですが、このフランクル氏は「生きる意味」の重要性を説いています。フランクルと言っていた「意味」と森田療法の「目的」というのがつながるような気がして。

そこで、この文章。

森田療法では、行動それ以前に「あるがまま」という理念を中心とした心理的、あるいは精神療法的アプローチとその理解に重点が置かれる。むしろその限りでは、人間学的なアプローチに包含された行動であるといってもよい。ただしこの場合の人間学とは、ビンスワンガーやメダルト・ボスやフランクルのように、西欧の哲学に根拠を置く〝現象対決的な人間学〟ではなく、現象をそのまま受け入れようとする〝現象受容的な人間学〟である。

出てきました。フランクル。しかも、フランクルの言っていたものとは異なるものであると言ってます。今の僕には難しすぎてよく分かりませんが、このあたりも単純に心理学の知識として興味がそそられます。

自分の体験(それがどんなにネガティブなものでも)を通して、ある本であったり、概念であったり、そういうものを感じ取ったり、深く理解できるというのは、なんとも不思議で幸せな感覚です。この体験にも、何かしらの意味があったのかとも思える。

そしてこちらの文章です。

筆者がドストイェフスキーに畏敬を抱くのは、彼が神経症的な不安・葛藤や、てんかん者としてのアウラ(発作の前兆)や発作を引き受けながら、なおかつ厖大な作品を創ったことである。つまりこれこそ、「目的本位」に小説を書き上げたといってよい。人間にはこのような汚ない側面がある、このような苦しい側面がある、このような淫らな側面がある、このように残酷な側面がある、などというように、次々と人間の弱点を抉りながら、なおかつ否定しきれない崇高ななにものかにぶつかっているのであり、そこにこそ彼は神を見ようとしている。聖者が天啓を得て神を見るのよりも、もっと真実の神を見ているのである。これはひとえに、彼が自分の神経症体験を自己克服しつつ、それを創造性へと転化させているからである。

 ここを読んで、自分の心の問題が、なにか崇高なものであるかのような錯覚すら覚えました。ドストエフスキー、また読んでみよう。

神経症的体験は、必ずしも人間にとってマイナスとなるものではない。苦悩・葛藤を通してその人間を深め、視野を広げ、より豊かな自由を目指す人間形成に役立つともいえるのである。すなわち、神経質(症)の治療は、とらわれからの解放から出発して、人間としての自由へと向かう一連の過程であると考えてもよいのである。

 これが本当であれば、こんなに救われる言葉はない。いや、どこかでこうであるはずだと信じていたような気もする。

本当に不思議な読書体験。いや、社会不安障害と気付いてから何冊が本を読んでいるけど、本当に自分のためだけに書かれたんじゃないかと思える本との出会いが続いている。何とかなりそうだと、明るい気持ちになった。著者の岩田さん(本中にもあるが、この本の執筆、そしてその内容の証明に正に命をかけたとも言えます)には感謝しかない。