勇者は呪われてしまった。

SAD(社会不安障害)という呪いにかかってしまった勇者の日記

酒が飲めなくて本当によかった

社会不安障害の本読んでいると、社会不安障害からアルコール依存症パニック障害うつ病が併発するっていう話がよく出てきます。アルコールって、医者に頼まなくてももらえる簡単な抗不安薬みたいなもので、どうもついつい頼ってしまう人も多いみたい。結果、人前に出たりするときにお酒についつい手が出てしまい、依存症になってしまうと。

僕は酒が弱くて、それも長年コンプレックスではあったんですが、今思うと酒飲めなくて本当によかった。。。

酒飲める体質だったら、意志の弱い僕のことだから、今頃完全なアル中じゃないかな。

でも、実はほかに併発する可能性のあるパニック障害うつ病は心配で、正直このまま行くとそこまで行きそう。その自信はなんかあるんです。このまま放っておけば。

もういい加減戦わないといかん。ボス戦に備えよう。

社会不安障害と在宅の仕事のお話

社会不安障害って本当に意地悪だなぁと思うのが、個人のパフォーマンスを相当下げてしまうこと。もう、これはまさにドラクエの呪いみたいなもんで。どんなに潜在能力が高くても、人前でまともにしゃべれなかったり、重要な場面でパニックになってしまうと、出世なんかもちろん、ただ平凡に仕事をするだけで非常に困難になっちゃう。

この辺は最初に読んだ「ぼくは社会不安障害」でも、読んでて本当につらかった。自分だけだったと思っていた変な呪いみたいな症状が、他に人にもあるっていうのには、ある意味ほっとした側面はあるんだけど、一方で、これほど正しく認知されないというか、認められていない人が世の中にいるっていうのは、とにかく悲しい。我々は本当にきびしい「縛りプレイ」やっているようなもん。(ちなみに、縛りプレイっていうのは、ゲームとかで勝手に自分で制限事項を付けちゃう遊び方。「呪文使わない」とか「アイテムを買わない」とか。)我々の場合は勝手に縛りがもうけられてるんだけど。。

そういう僕も、大学卒業してからなんとか普通の会社に入ったのですが、想像通りいろいろごまかしながらの社会人生活で、結局現在は在宅でできる仕事をしています。家で仕事できるなんて、ほかの社会不安障害の人からするとおそらく理想的ともいえるような仕事なのかもしれないけど、これはこれでいろいろある。

プラスの点としては、在宅の仕事だともちろん人とリアルで絡むことが限られてくるので、単純につらさは減ります。基本はメールでのコミュニケーションで、たまに電話とか、さらにたまにテレビ電話会議があるくらい。テレビ電話会議があると、もちろん何週間前から心配で心配でつらいんだけど、1年を平均すると割と平和に仕事ができる。

逆にマイナスの点としては、症状が悪化する可能性があること。在宅ワークって、社会不安障害の人には100%いいことのように思える反面、僕の経験からすると、このように生活ベースとして社会(人)から離れてしまうことで、回避癖がもっと強くなって、結果として社会不安障害としての症状が悪化してきているのを強く感じています。

実際、ここ1年くらい、人前で字を書くときに異常に緊張してしまう書痙という症状が出てきているんですが、これはサラリーマン時代はまったくなかった症状。普段から人と絡むことが少なくなったことだけじゃなくて、自営業としてのストレス増加もあるのかもしれないけど、でも在宅の仕事を始めてから、ほかにもいろいろ「できなくなったこと」が増えてきていて。。徐々に視界が狭くなっていくような感じ。どんどんできることが減ってきて、できないこと・怖いことが増えてきて。

ただ、逆に、酷くなったおかげで社会不安障害というものを知るきっかけにもなったのはあるんですが。。

今後も基本は在宅での仕事を続けていく予定ではあるんですが、もし本当にこの社会不安障害が治せるんであれば、やっぱりいろいろ夢が広がるというか、できることが圧倒的に広がるんだろうな。。

ほんと、もう縛りプレイなんかうんざりなんすよね。

読書メモ:社会不安障害―社交恐怖の病理を解く

薬物治療にどうしても抵抗があったけど、この本読んで少し気持ちが落ち着いた、というかもう少し覚悟することができた。以前読んだ本は医者の営業本みたいな印象もあったんだけど(ある意味、それくらい気軽に来院してねという優しさと判断してますが)、この田島先生の本ではもっとバランスが取れた話が聞けた。つまり、SSRIのリスクなんかもちゃんと書いていてくれて、それでも社会不安障害には重要な薬となることについて、もっと納得できた。歴史的な話とか、各国で行われた調査とかも、新書としては割と詳しく書いてあって、単純に読み物としても面白い。

社会不安障害―社交恐怖の病理を解く (ちくま新書)

社会不安障害―社交恐怖の病理を解く (ちくま新書)

 

それにしても、これなんかは2008年の本なんだけど、もっと早く読んどけばと、ただただ後悔。

社会不安障害と読書療法

昨日ジュンク堂で見てきた「不安もパニックも、さようなら」という本。最初のページをさらさら見ていたら目に付いた言葉が「読書療法」。気になったのでちょっと調べてみました。

Wikipediaによると

読書療法(どくしょりょうほう、英:Bibliotherapy)とは、題材を読むことによって心理的な支援を行う、心理療法の1つである。うつ病に効果が報告されている。

文字通り、読書によって心理的な病を癒やす療法とのこと。「そんな簡単じゃないでしょうに」と思う反面、一方向的なカウンセリングだと思えば効果もありそうな気も。

こうも書かれています。

プラセボ効果を研究するハル大学アービング・カーシュ博士は、認知行動療法(CBT)を受けなくても、そのメリットの多くを得ることができる方法として、認知行動療法の読書療法を薦めており、臨床試験で良い結果が得られたものの中から2冊を紹介している[1]。『うつのセルフ・コントロール』、『いやな気分よ、さようなら』[2]はいずれも認知行動的な技法に関する本である[1]

『いやな気分よ、さようなら』の臨床試験では、短期的には、標準的な認知行動療法を実際に受けたほうが改善されたが、3ヶ月後には効果は同等であった[1]。3年間の追跡調査から効果が持続的であることも示唆されている[1]

 ここにある「いやな気分よ、さようなら」は、僕が注文した「不安もパニックも、さようなら」の前著的なもの。正にこの著者が広めた概念なんでしょうか。

どちらにしても、読書療法というのは心理的ハードルが低くて、病院は検討しているけど、まず自分だけでできることをやってみたいと思っている自分にとっては最適な療法と言える。

以下がこのデビッド・D・バーンズさんの本。「いやな気分よ、さようなら」がベストセラーとのことで、それベースに、特に不安障害とかパニック障害を対象してして書き直したのが「不安もパニックも、さようなら」という位置づけのようです(Amazonのレビューによると)。

不安もパニックも、さようなら 不安障害の認知行動療法:薬を使うことなくあなたの人生を変化させるために

不安もパニックも、さようなら 不安障害の認知行動療法:薬を使うことなくあなたの人生を変化させるために

 

 

〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

 

この2冊、昨日ジュンク堂で見てきましたが、別記事で載せた写真からも確認できるように、両方とも結構な分厚さの本。読み応えありそうです。楽しみ。 

sadwarrior.hatenablog.jp

 

ジュンク堂までSAD関連本を探しに行ってきた

近所の本屋にはSAD関係の本が置いてなかったので、一番近場のジュンク堂まで行ってきました。

さすが超大型書店。ちゃんと不安障害のコーナーもあって、なんか感動しました。Amazonでも検索で出てくる本もありましたが、プロ向けの専門書(お医者さんとか、たぶんカウンセリングするような人向け)のもあって、すごく面白かった。

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あと、不安障害とは何ぞやという本ではなく、治療に特化したものは少し違うコーナーで発見。あと、森田療法のコーナーもありました。僕は写真右下にある「不安もパニックもさようなら」という本の中身を見てみたかったので、在庫があってラッキー。すごく良さそうな本だったので、帰ってから早速注文しました(重かったのと、この本をレジで買う勇気が出ないのと、あとネットのポイントを使いたかったから)。

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Amazonとかのネット書店と違って、関連本が一覧できるので、こういう探し方はリアル書店が圧倒的にいいですね。専門書もあって興味深い。

あと、今回気になったキーワードが「マインドフルネス」。近いコーナーに関連書籍がたくさんあって、単純に流行っているだけなのかもしれないけど、ちょっと気になる。

社会不安障害関連の本が本屋さんに置いてない件

最近本屋さんに行くと、いつも医学関係のコーナーを見に行くんですが、社会不安障害とかSAD関連の本って、一般の本屋さんでは置いていないんですよね。ほかの精神疾患の本はあるんですよ、例えばうつ病とか、アスペルガー症候群ADHDとか。でも、社会不安に関する物は全くない。もちろん紀伊國屋とか都市型の大型書店では置いてあるとは思うんですが。。

で、なんでかと考えたんですけど、単純にきっと売れないからだと思います。

だって、社会不安障害の本を買おうと思うのは、おそらく心を病んでいる我々本人のはず。我々みたいは人間は、なかなか「社会不安症」とか「あがり症」と表紙に書かれている本を、どうどうとレジに持って行けないですよね。それができないから社会不安障害なわけで。「あら、この精神病んでるのかしら」と思われるような気がして。まあ、単純に認知度が低い病気であることも関係しているんでしょうが。

でも、うつ病とか、その他の病気の場合は、本人と言うよりも家族が買っていくというパターンも多いんじゃないかな。一方で社会不安障害の場合は、家族にも相談できないケースがほとんどだと思うし。ちなみに、僕の場合も両親は全くこのことを知らないし、こちらから相談しようとも思わないし(なんと思われるか。。。)。今思えば、よく何十年も隠せているなぁとびっくりするけど、でも実際自分が社会に出ていて苦労しているシーンを両親は見る機会もないだろうから、それほど不思議な話でもないのか。。

というわけで、社会不安障害の本は買う人がほとんどいないから、普通の本屋には置いていないし、そのためにこれからもなかなか認知度が上がっていかないという、悪循環になっているのかもしれないと思うと、なんだか残念というか、悲しいというか。。。。というお話でした。

読書メモ:森田療法 (講談社現代新書)

社会不安障害に効きそうなのは薬だけじゃなく、行動や認知で治すというところもあり、どちらかというと薬は補助的な役割をして、実際は心の内面から治していくんだろう。

その、行動とか考え方を変えていくというやり方で、よく目にしたのがこの森田療法というもの。とりあえずAmazonレビューの高いものを読んでみた。

森田療法 (講談社現代新書)

森田療法 (講談社現代新書)

 

 森田療法についてざっと学ぶのに最適。森田療法では、「あるがまま」であることが重要とのこと。つまり

一人前の人間として、人生に対する方向性を見出して行動するときに、希望と同時に生じてくる不安や葛藤を〝そのままに認め、受け入れる〟ことを「あるがまま」というのである。

 西洋的な考え方だと、不安のような気持ちは障害として「取り除く」というのが通常のようで、一方東洋的と言える森田療法では、それを「あるがまま」としてそのまま認めて、受け入れると。

また、すごく自分の琴線に触れる箇所も。例えば、

神経質(症)者は人並以上に観念的な人が多いので、物事を考え尽してからでないと、行動に踏み切ろうとしない傾向がある。「石橋を叩いて渡る」という諺があるが、神経質(症)者は石橋を叩きながらそれを渡ろうとしない人が多いのである。彼らはその橋を本当に確かなものであるかどうかがわからないから渡れないという。

中学生の頃、保護者面談で「息子さんは石橋を叩いて、それはいいんですが、結局渡らない」と言われて、母親が苦笑いしているという風景をよく覚えていて、正に自分のことを言ってくれているとびっくりした。そう、まさにこれで、その橋が確かなものかわからないから渡れないんです。

森田療法での「あるがまま」は、人間性に向かっての方向をもった「あるがまま」なのであり、その方向を「目的本位」という。つまり、それまでに、感じ、悩み、葛藤としてきた不安、苦痛、症状を「あるがまま」にしながら、自分自身の人間としての目標に向かって「あるがまま」を実現していかなければならないのであり、その方向を「目的本位」といい、目的本位はまた、行動として実現されなければならないのである。

 この辺を読んでいて、特にその「目的本位」という考え方、実はこれはここ数年にずっと考えていたこと。さっきの「橋が確かなものかわからないから渡れない」けど、それでもそこを渡るには、その先にどうしても行かないといけないという強い目的が必要だとは感じていて。で、実はこう考え出した、というかこう考えられるようになったのに、この本がありました。

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 
夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

ドイツの強制収容所から生還した心理学者による体験談の本なんですが、このフランクル氏は「生きる意味」の重要性を説いています。フランクルと言っていた「意味」と森田療法の「目的」というのがつながるような気がして。

そこで、この文章。

森田療法では、行動それ以前に「あるがまま」という理念を中心とした心理的、あるいは精神療法的アプローチとその理解に重点が置かれる。むしろその限りでは、人間学的なアプローチに包含された行動であるといってもよい。ただしこの場合の人間学とは、ビンスワンガーやメダルト・ボスやフランクルのように、西欧の哲学に根拠を置く〝現象対決的な人間学〟ではなく、現象をそのまま受け入れようとする〝現象受容的な人間学〟である。

出てきました。フランクル。しかも、フランクルの言っていたものとは異なるものであると言ってます。今の僕には難しすぎてよく分かりませんが、このあたりも単純に心理学の知識として興味がそそられます。

自分の体験(それがどんなにネガティブなものでも)を通して、ある本であったり、概念であったり、そういうものを感じ取ったり、深く理解できるというのは、なんとも不思議で幸せな感覚です。この体験にも、何かしらの意味があったのかとも思える。

そしてこちらの文章です。

筆者がドストイェフスキーに畏敬を抱くのは、彼が神経症的な不安・葛藤や、てんかん者としてのアウラ(発作の前兆)や発作を引き受けながら、なおかつ厖大な作品を創ったことである。つまりこれこそ、「目的本位」に小説を書き上げたといってよい。人間にはこのような汚ない側面がある、このような苦しい側面がある、このような淫らな側面がある、このように残酷な側面がある、などというように、次々と人間の弱点を抉りながら、なおかつ否定しきれない崇高ななにものかにぶつかっているのであり、そこにこそ彼は神を見ようとしている。聖者が天啓を得て神を見るのよりも、もっと真実の神を見ているのである。これはひとえに、彼が自分の神経症体験を自己克服しつつ、それを創造性へと転化させているからである。

 ここを読んで、自分の心の問題が、なにか崇高なものであるかのような錯覚すら覚えました。ドストエフスキー、また読んでみよう。

神経症的体験は、必ずしも人間にとってマイナスとなるものではない。苦悩・葛藤を通してその人間を深め、視野を広げ、より豊かな自由を目指す人間形成に役立つともいえるのである。すなわち、神経質(症)の治療は、とらわれからの解放から出発して、人間としての自由へと向かう一連の過程であると考えてもよいのである。

 これが本当であれば、こんなに救われる言葉はない。いや、どこかでこうであるはずだと信じていたような気もする。

本当に不思議な読書体験。いや、社会不安障害と気付いてから何冊が本を読んでいるけど、本当に自分のためだけに書かれたんじゃないかと思える本との出会いが続いている。何とかなりそうだと、明るい気持ちになった。著者の岩田さん(本中にもあるが、この本の執筆、そしてその内容の証明に正に命をかけたとも言えます)には感謝しかない。